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| この年以前、しばらく、ドラフトはつまらなくなったという声が世間では聞こえるようになっていた。それは、1993年から始まった”逆指名制度”のために、”大勢”がドラフト前に入団先が判明してしまうことがその最大の原因だった。 −だが1995年に限っては、一人の大物高校生によって久々にドラフト戦線に活気が蘇った。その超目玉と言うべきフィーバーの主役が、母校大阪・PL学園を春夏連続して甲子園に導いた超高校級大物スラッガー "福留孝介"、その人である。 ここでは、’95年”福留ドラフト”といわれた福留を巡るプロ各球団の虚々実々の駆け引きやその結末を振り返り、ありのままをドキュメントします。 |
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| 1995年11月22日に行われたドラフトは、「福留ドラフト」と言われるほど、PL学園の4番打者・福留孝介遊撃手の存在があまりにも大きなウェートを占めていた。近年、それまでのドラフトでは、投手こそ、近藤真一(享栄高−中日)、野茂英雄(新日鉄堺−近鉄−メジャーリーグ)や、小池秀郎(亜細亜大−松下電器−近鉄−中日−近鉄)など、超大物と騒がれ、多数球団が重複指名した優秀な投手はいたが、こと、野手となると、’85年の清原和博(PL学園−西武−巨人)や’91年の松井秀喜(巨人−ヤンキース)以来、超大物と騒がれる野手はほとんど現れなかった。そこに現れ、久々の大器と騒がれたのが、PL学園の4番・福留孝介(ふくどめこうすけ)であった。 |
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| [全国区] 1995年(平成7年)ドラフトは一人の高校生を巡り、プロ全球団が争奪戦を繰り広げた。ターゲットは、言わずと知れた、高校球界NO.1スラッガー福留孝介(PL学園)。福留の名前が一躍全国に広がったのは、’95年のセンバツ高校野球だった。阪神大震災(1月17日)の復興を祈願した大会初日で早くもパワーを見せつけた。名門・銚子商との初戦で、バックスクリーンへ特大の3ラン。チームは敗れたが、大物ぶりを十分に印象づけた。その前年末、全日本高校選抜の主将として第1回アジア・ジュニア選手権(豪州)に参加。四番・ショートとしてチームを引っ張り、見事に選抜軍を初代優勝に導くなど、国際舞台の実績も十分だ。 そして高校野球は真夏の陣を迎え、福留フィーバーは頂点を迎えることとなる。計187校が参加した激戦区・大阪大会。福留は驚異的なペースで本塁打を量産した。初戦の和泉工戦の2打席連発を手始めに、決勝の市岡戦まで8試合で7発。PL学園の偉大な先輩、清原和博の持つ大会記録5本を難なく更新した。そして、夏の甲子園。対北海工(南北海道)戦の初戦から飛び出した満塁ホームラン。(映像みる) この後の打席でも本塁打を放ち、大会史上5人目の2打席連発を達成した。まさに10年に一人の逸材。甲子園でのプレーはまさに、その称号を不動のものとする活躍だった。
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| [ラブコール] 久々の野手スター候補の登場で色めき立つプロ各球団。 最初にラブコールを送ったのが、当時の巨人軍監督・長嶋茂雄氏だった。5月8日に「今年のドラフトはクジ引き勝負。最低でも5球団は重なるでしょうけど、冒険する価値はあると思いますよ。思い切って勝負をかけますか?」とぶちあげた。ミスターの意向を受け、保科球団代表(当時)が夏の甲子園を視察。「巨人は世代交代の時期。福留君がウチに入ってくれれば、チームを変えてくれると思うんです」と最大級の賛辞を送った。当然、獲得に向けて万全の手は打ってある。かつてPL学園野球部父兄会長を務めた伊藤菊スカウト部長(当時)が、1年時から徹底マーク。1985年暮れ、早大進学が有力だった同校の桑田真澄を巨人入りさせた”仕掛け人”は”絶対、獲りたい選手”と獲得へ秘策あり、を匂わせた。 この頃、当時の次期監督復帰予定で既に指揮を執っていた中日・星野仙一監督も黙ってはいない。「あれほど華のある選手はめったにいない。絶対、逃したくない」と名乗りをあげ、同じく同校の立浪和義を獲得した実績を引っさげ、巨人に挑戦状を叩きつけた。ロッテは、当時の広岡達朗GM(ゼネラルマネージャー)が5月3日に大阪・富田林の学校まで足を運ぶ熱の入れよう。さらに日本ハム、ヤクルト、近鉄が続き、6球団が”福留1位を表明した。広岡氏いわく「彼(福留)は、近い将来、4冠王(打率・本塁打・打点・盗塁)を全てとれるほどの逸材だ」と新聞記事にコメントを載せている。 |
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| [プロ奔走] 甲子園での戦いに幕を降ろした8月20日の智弁学園戦(準々決勝)後、”しばらく野球のことは頭から離したい”と進路については何も語らないまま、福留は短い夏休みを過ごすために父・景文氏とともに鹿児島に帰郷した。 再び報道陣の前に姿を見せたのは、8月25日。三国親善高校野球韓国遠征の全日本チームの結団式だった。福留がその前年末の豪州遠征以来二度目の主将を務めた全日本チームは、韓国、米国を相手に4戦全勝。9月4日の最終戦(対韓国戦=ソウル・東大門球場)の後、福留は初めて卒業後の進路について語る。「卒業したら上(プロ)にいくつもりでいます。社会人はたぶんないだろうし、進学も考えてはいません。」とプロ一本の進路を明言。また、入団を希望する球団についても、「自分にとって大切なのは、自分をどう生かし、伸ばしてくれるかということ。ここだけは行きたくない、というような球団はありません。」と12球団を公平にみる姿勢を明らかにした。ただし、これは、”この時点”での、希望進路だった。 1ヶ月後、事態は急変する。巨人・中日の2球団と見られる、希望球団以外なら社会人入りという選択肢が、明らかになったのだ。10月3日、PL学園・中村順司監督(当時、現名商大監督)が本人の気持ちを代弁する形で、「福留にはどうしても行きたい球団があるようで、日本生命さんにご無理をお願いすることになります。」と、社会人球界の名門、関西の雄、日本生命への入団希望が明らかに。さらに6日、福留は大阪府吹田市の日本生命グラウンドで行われた同社の練習に参加。10年前に同じPL学園の超高校級スラッガー、清原和博が”巨人以外なら日本生命へ”と同社を受け皿にしたことはあるが、実際に練習に参加した事実はない。福留の、まさに希望へのこだわりの強さをアピールするかのような練習参加に、近鉄、日本ハムなど、”希望外”とされた球団の編成陣は騒然となった。 さらに、プロ側の不安に追い打ちをかけたのは、日本野球連盟・山本英一郎会長(当時・会長代行)のコメントだった。同会長代行は10月8日、福留がドラフト前にプロ入りを拒否し、日本生命入りを決断した場合には、「前年の小野仁君(秋田経法大付高−日本石油−巨人−近鉄)同様、ただちに凍結選手の手続きをとるつもりだ」と発言。アトランタ五輪出場という名誉に加え、来秋には逆指名での希望球団入りという究極のプランを持ち出して、全日本入りを迫った。だが、翌9日に福留自身が「元々オリンピックへの希望を持っていたのなら話は別ですが、ボクの場合はあくまでもプロ志望です。もし、五輪のことを考えるとしても、ドラフトの後でしょう。”と語り、ドラフト前に社会人入り決断については完全否定。また、プロ側からアマ・サイドへの働きかけもあり、凍結選手となる可能性は消えたが、福留を1位に据える球団にとっては、たっぷりと冷や汗をかかされる状況が続いたのである。 |
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| [朗報] 福留を追うスカウト達からは、「これで前年の城島健司(別府大付高−福岡ダイエー)のように、退部届け未提出を理由にずっと門前払いを食わされて、揚げ句の果てに他球団にさらわれたら目もあてられんなあ・・・」と嘆くスカウトは一人や二人ではなかった。だが、”希望外球団”に朗報が舞い込む。福留にとって高校最後の公式戦となるふくしま国体開幕の直前、日本高野連・田名部和裕事務局長が”明らかに入団を約束したり、金銭的な条件を提示する内容ではなく、福留君を指名したいという挨拶や球団の内情を説明するような一般的な話なら何ら問題ありません。”と語り、退部届けを出さなくても指名あいさつ受けられることを認めたのだ。これでプロ側にとっては、本人と直接会って口説き落とすチャンスだけは得ることができた。この高野連見解を受けた福留が進路について口を開いたのは、国体終了後だった。 |
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| 10月18日、国体決勝の柳川戦(いわきグリーンスタジアム)で福留はサヨナラ打を放ち、高校最後の試合でPL学園は全国の頂点に立った。試合終了後に注目の進路についての会見が設けられたが、本人が語ったのは「大阪に帰ってから中村監督、竹中先生(野球部長)、親と一緒に相談して、プロ側のお話をうかがいます。それでいろいろ考えた上で、(進路については)はっきりさせて行きたい」という程度。サヨナラ優勝の興奮冷めやらぬ表情とは裏腹、冷静なコメントだった。 翌19日、福島から帰阪途中の車中でも、竹中徳行野球部長の携帯電話にプロ側からのあいさつ申し入れの連絡が入り、22日の近鉄、日本ハムを皮切りに中村監督、竹中部長同席の上で「福留詣で」がスタートした。ロッテ、中日、ヤクルト、阪神、巨人の計7球団が、福留を訪問。NKK・船木聖士、西濃運輸・中之瀬幸泰の即戦力投手の1・2位指名を決めていた阪神は、福留サイドに編成方針とは別の高い評価のほどを伝え、この訪問を最後に争奪戦からは身を引いたが、残る6球団は「それなりに感触を得た」ことを指名あいさつ後の記者会見で明らかにした。だが、実際はどうか。福留に接触したあるスカウトは「好感触かどうかなんて、実際はわからない。話を聞いてくれる態度はこちらから一度も目をそらさず、実に立派だったが、なにせ一言もしゃべらなかったんだから」と明かす。あいさつの内容は、プロ側が一方的に球団の内情を説明。本人はひたすら、聞くばかりだったという。中には反応を求めて食い下がる球団もあったが、本人から返ってきたのは笑顔だけだった。幾人もの大物ルーキーを手掛けたスカウトさえ「彼の場合は、真意を図りかねる」と途方に暮れる。福留は「とにかく自分に会いたいと言って来てくださった球団すべてにお会いするまでは、自分の気持ちを出すわけにはいかなかった」という。 当初の予定では”自分の気持ち”は、26日の巨人を最後にプロとの接触を終え、2日後の28日に学校で記者会見を開いて明らかにするはずだった。だが、「一生のことだし、もう少し考えれる時間が欲しい」(福留)と延期した。 |
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| 意中の球団は、巨人・中日! −7球団の訪問は終わったが「希望球団以外なら日生」は確実に− 記者会見を開くはずだった28日、福留は父・景文さん、中村監督、竹中部長と話し合い、家族会議の結論という形で、巨人・中日と言われる希望球団以外なら日本生命へ入社する当初の方針を竹中部長が確認した。そして、本人の意志がファックス文書という形で初めて明らかになった。・・・・・・・・・・・・・テンやハネを丁寧に書くところに特徴がある福留直筆の「心境報告」が、共同、時事両通信社を通じて報道各社にFAXで届けられたのは、11月11日のことであった。「今回、7球団の話をお聞きしてみて、どの球団も私が今までやってきた事に対して、高く評価してくださっていることを感じ、有り難く思っています。私は高校進学のときも、私の強い意志を両親も納得してくれ、PL学園に決めました。同じように、今回もレベルの高い所でやってみたいという私の強い意志を両親も理解し、賛成してくれました。後は、11月22日を心静かに待とうと思います」という内容。400字詰め原稿用紙半枚に記された直筆文に、「国体が終了してから何かと福留孝介に対するドラフトの事でお騒がせ致しましたが、本人の希望でもあり11月22日のドラフト会議当日まで、今まで通りの生活をさせてあげたいと思います。」という竹中徳行野球部長のコメントが寄り添うように寄せられていた。このファクス文書を出した直後、福留は大阪府富田林市のPL球場で新チームの練習試合を見ながら「これですっきりした気持ちで、11月22日(ドラフト会議)を待つことができます」と微笑んだ。プロ球界もアマ球界も注目した'95年ドラフト最大の注目候補の進路表明。解釈の仕方は人それぞれだが、当の福留はこれがドラフトまでの最後の決意表明のつもりで言葉を選んだ。 |
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| [強い意志] −15歳の頃、既に他人の言葉に首をタテに振らず自分を貫いた一徹少年− 巨人・中日と言われる本人の意中球団だが、直筆文の中でこれについては表明していない。高校生に逆指名権の認められない現行制度を順守する意味で、福留サイドはあえて希望球団を公表しないことを決めた。何の拘束力を持たないとはいえ、「希望」の名のもとに意中球団を表明する高校生が多いなか、福留の姿勢は異例であった。だから、「意中球団があったとしても、指名を受ければどの球団にでも行くのではないか?」、「それで公表しないのではないか」というのが、プロ側 で大勢を占めた見方だった。だが、「10年に一人の逸材」と言われる福留孝介の人生観を探ると、その見方には疑問符が付く。人生の岐路に立ったとき、福留は「どういった環境を選べば、自分の力を最大限に伸ばせるか」を常に念頭に置いて道を選んできた。PL学園進学を決めたとき、鹿児島の強豪校は地元の逸材の大阪流出を防ごうと、懸命の説得にあたったという。だが、わずか15歳の少年は、年長者のどんな言葉にも首を縦に振ろうとはしなかった。「自分が考え抜いて決めたことだから」と信念を通した福留は、同じ姿勢を今回も貫こうとしていた。「現役を辞めたあとも含めて、一生の仕事」とする本人の見方で、「希望する球団に指名されることだけを考えています」と11・22を待つ逸材と指名権を得ても入団を拒否され、ドラフト1位を失うリスクを背負って勝負に出るプロ側。「審判の日」は、刻一刻と迫りつつあった・・・・・。 |
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| 2年ぶりに復活したドラフトのテレビ中継。まさに日本中が注目したこの年のドラフト会議。最大の注目は、言わずと知れた、超高校級スラッガー、”怪物”福留孝介(PL学園)18歳。福留を意中とする球団は、この日のためにさまざまな願掛けを行い、異例の体制で望んだ。静まりかえる会場。 会議は、緊張と静粛の中はじまる。 「第1回選択希望選手、中日、福留孝介 18歳 内野手 PL学園高校」・・ 響き渡るドラフト会場司会の声、12球団の1位希望選手が読み上げられ、当初の予想プラス急きょ、福留獲得へ方向転換をしたオリックスを含め、合計7球団のドラフト1位指名重複が判明する。 巨人・中日・ヤクルト・近鉄・日本ハム・ロッテ・オリックス 全7球団の指名・・。 −これは、今もなお、ドラフト高校生史上最多1位指名重複である。 あらかじめ予想されたとはいえ、会場内が異常な緊張感につつまれる。 巨人:長嶋監督。中日:星野監督・・・そうそうたるくじ引き代表者。 各球団それぞれのテーブルでは、祈りを込めた表情でくじ引きに向かう「命運を握る人」を見つめる。 7球団のくじ引き代表者が一同に並ぶ。 目の前にあるたった1つの箱に手を入れ、くじを引く。 ある者は、その右手で・・。また、ある者は祈りを込めた左手で・・。 くじ引きの瞬間 −スカウト及び球団・会社全体が獲得へ尽力した総決算の瞬間である。 さまざまな思いが脳裏を駆け巡る・・。 「お開け下さい」 7球団のくじが、皆それぞれに開封される。 「福留はどこへ・・」日本中が固唾(かたず)をのんで見守る瞬間。 次の瞬間、あっけなくその瞬間はおとずれる。 「よっしゃー」 会場の張りつめた空気が、喜びとはかなさに包まれる瞬間である。 くじを引き当て、雄叫びをあげたのは、後に中日で打撃コーチ就任し、福留と師弟関係を結ぶこととなる、 当時、近鉄新監督の就任したばかりの佐々木恭介監督である。 運命というものは不思議である。後に福留の打撃開眼の師匠ともいうべき佐々木氏との 出会いは、すでにここから始まっていたのかも知れない。 佐々木氏はこの日、願掛けの気持ちを込め、赤ふんどしを締め、会場にに望んでいた。 「第1回選択選手 近鉄 福留孝介 18歳 内野手 PL学園高校・・・」 抽選結果判明により、指名確定の司会の声が会場をこだまする・・。 佐々木は、会議を途中で抜け出し、その足で福留のいる、大阪府富田林市へ向かった・・・。 |
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| 【交渉の結末】 その後の近鉄の交渉において、福留選手本人がしっかりとテーブルにつき、「話を聞き受け付けず、シャットアウトするのは失礼に当たる。でも自分の意志はいまも全く変わりありません。」とはっきりとした意志を表明し、その後、正式に近鉄に断りをいれることとなる。自分の目標・態度・意志をしっかりと持ち、常にはっきりとした応対で交渉に望む姿は18歳とは思えぬ見事な振る舞いであった。 「希望球団でやりたい気持ちはずっと変わりません。」 「意志を押し通して、後悔するならそれでいい・・」 交渉の席において、佐々木恭介監督(当時)は縁起をかついでドラフト会議当日の服装そのままに、起用法や自分の思い入れを便せん5枚に書きつづった”ラブレター”を持参しての交渉であったが、本人の強い意志を尊重し、近鉄側も最終的に獲得断念を表明した。 |
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| もう後悔はない。自分の運命は自分で切り開く。思いは今も昔も変わらない。 ”10年にひとりの逸材”福留孝介は、新たな目標、アトランタ五輪出場、都市対抗戦制覇を通した自分自身をさらに成長させるため、新たな目標へむけて歩み始めることとなる。 日本全国が注目した「福留ドラフト」はここにひとつの幕をおろすこととなる。 |
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